白紙の倫理

前回、「全盲の倫理」として、他人を判断するときに、全盲者と同様に相手の容姿が見えないという仮定に立ち、容姿以外の要素で評価するという倫理観を示した。


しかし、目の見える大半の人にとって、そのような不自然な実践は難しいかもしれない。たしかに、全盲の倫理は究極の倫理であって、全盲者以外の人にとっては一定の「訓練」を必要とする。そこで、もう少し易しい倫理として、「白紙の倫理」というものを提案してみたい。


白紙の倫理とは、優劣の価値判断を完全に停止して、頭の中を白紙状態にするということである。


人間は優劣の価値判断をする唯一の動物である。そこから、劣等的と判断された者を蔑視・排除することがあらゆる差別の始まりである。差別の一丁目一番地である容姿差別の場合は、容姿が美しい(優等)/醜い(劣等)という価値判断に基づき、醜いとみなされた者を差別することになる。


しかし、以前にも指摘したとおり、こうした優劣の価値判断は文化的な価値基準にも左右される。有名な例では、多くの文化圏では劣等視される太った女性が美しいとみなされる文化圏も存在する。まして、個別の容貌の優劣となると、文化に加えて個人の好みにも左右される。


人間は優劣の価値判断をする唯一の動物である、などと言えば、それこそ人間の“高等知能”のなせるわざなどと誇りに思うかもしれぬが、実のところ、優劣の価値判断の尺度は極めてあいまいでいい加減なものなのだ。


そんな在って無きがごとき尺度はいったん棚上げにして、白紙状態で他人を判断してみようというのが白紙の倫理の本旨である。そうした白紙状態で臨めば、全盲者でなくとも、容姿の外見で他人を評価するといういつもの癖は治せるはずである。


ちなみに、この白紙の倫理は容姿以外の問題にも応用できる。例えば、差別の一丁目二番地の障碍者差別、同じく三番地の人種差別である。障碍の有無や人種の別で優劣を付けるという評価を棚上げして、まっさらな状態で他人を評価してみることである。


もっと拡大すれば、外国人とか同性愛者、犯罪者など社会的に排斥されがちな属性全般についても、優劣の判断をいったん停止してみると、全く違った見方が開けてくるはずである。


もっとも、今挙げた拡大カテゴリーは政治的・道徳的な価値判断も絡んでくるため、さほど単純ではないのだが、少なくとも容姿・障碍・人種のように、本人に何ら責めのない先天的な要因での差別―つまり差別の一丁目―については、白紙の倫理は適用しやすい。


まず白紙の倫理を実践し、慣れてきたら全盲の倫理へ進むというプロセスで練習すれば、誰でも自然に差別を克服できるのではないかと思うので、是非お試しいただきたい。


[追記]
今日、この記事を書いていて、驚くべき―というより哀しむべき―ニュースに接した。昨日24日付けの共同通信ニュースによると、野生ザルの餌付けで有名な大分市高崎山自然動物園は24日、顔写真で雄ザルの1番人気を来園者らが決める「イケメン選抜総選挙」(!!―筆者付記)の結果、推定16歳の「シックス」が約30%の票を獲得し、1位に選ばれたと発表したという。

とうとう、日本社会ではサルに対してまで容姿による選別が始まったようである。ここまで来ると、ほとんど病的と言わざるを得ないが、このような企画の発想者はおそらくふだんは人間に適用している自らの差別的価値観を何ら反省せず、人間の価値基準を野生動物にまで当てはめようとしているわけである。白紙の倫理の真逆的な実践である。

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